1. 小 史

 湘南中学校は大正10年(1921年)の創立であって、当初から校友会には蹴球部を置くことに定められておった。初代校長赤木愛太郎氏の方針は、野球を禁止し、サッカーを校技とするということであった。校庭にゴールポストが立ったのは大正12年秋。翌13年には、当時東京カレッヂリーグの覇者高等師範の主将、後藤基胤氏が赴任され部長として指導を受けることができ倖せなスタートであった。氏の先見性ある気風はその後長く跡を引いた。
 全校チームが結成されたのは大正14年、同年秋の県下中学校大会に公式戦初出場。三中グランド(現緑ヶ丘高)で行われ、一回戦で泥寧の中0−9で二中(現翠嵐)に大敗。大正15年9月、神奈川県中等学校ア式蹴球連盟が組織され、第1回県下中学リーグ戦(鎌倉師範、浅野中学、横浜二中、関東学院、横浜三中、神奈川工業、鎌倉中学(現鎌学)、湘南中学の8校)が行われた。湘南は決勝で二中に0−1と敗れ2位となる。この年より、5ケ年計画を立て、できるかぎり下級生をレギュラーとし、5年目の昭和5年には強チームの出現となる。県下春のリーグ戦(参加8チーム)で初優勝、続いて秋のリーグ戦も優勝。高等師範主催の全国大会に出場し決勝まで進出、高師附属に1−3で敗れ準優勝。翌6年も同全国大会で決勝に進出、志太中学(現藤枝東高校)と対戦。延長、再延長でも決せず、翌日の再試合でまた延長、往年のオリンピック選手松永氏に一点叩きこまれ、ついに敗れる。二日がかりの決勝戦は中学サッカー界ではこれだけである。昭和7年の同全国大会は3位に終わる。これ以後戦前は、湘南が県下で優勝できなかった年は数回しかない。
 昭和12年、山静神大会で優勝し、西ノ宮の全国中学校大会に初出場。1回戦で優勝校埼玉師範に1−5と敗れる。
 昭和14年、夏の甲子園全国中学校大会に再度、山静神代表として出場。準決勝で聖峰中に抽選負けし三位。秋の第1回明治神宮体育大会(後の国体)及び12月の関東大会でも各々準決勝で、明星商業・豊島師範に惜敗している。
 昭和15年の関東大会では、決勝で明倫中学を2−1で破り優勝。全国大会は1回戦で普成中に1−8と大敗。翌16年の関東大会も、決勝で延長再廷長、2時間余の熱戦の末1−0と青山師範を下し連続優勝。17年は戦時体制下に入ったが、春季トーナメント大会優勝を飾り、全国大会では3位になっている。
 昭和21年、復興第1回神祭川蹴球大会が春季に行われ優勝。秋季には、第1回国民体育大会の中学校代表になり関東地域大会に進出、東京代表高師附属中学校、埼玉代表浦和中学を連破。東日本地域代表決定戦では仙台中を破り決勝進出。決勝戦で西日本代表神戸巾一中と対戦、接戦の末3−2と下し全国制覇を成し遂げた。
 昭和23年、第3回国民体育大会に、関東地区予選会で東京附属中学を5−1と破り、東日本地区大会でも圧倒的勝利で決勝進出。やはり図抜けた実力で西日本代表となった広島高師附属中と対戦、0−1で惜敗した。広島高師は元全日本監督長沼氏、また日本代表になった木村氏等がいたチームである。なお、この決勝戦では広島チームが試合開始時間に遅れ、湘南の不戦勝になるところであったが、湘南チームはこれを良しとせず決戦を行なったというェピソードがある。
 昭和24年、学制改革で6・3・3制への変革期に入る。
 これ以後数年間、東京の大学サッカー界に湘南時代ともいうべき時が続いた。東大、早大、慶大、明治の主将ほか、日本代表級多数が湘南出身で、関東学生選抜の半数以上が卒業生で占められたこともあった。大埜正雄(15年卒)、安保隆文(15年卒)、戸沢澄(16年卒)等は当時日本代表になれる選手であり、湘南の黄金時代を築いたメンバーで、岩渕二郎氏と共々湘南蹴球界の忘れ得ぬ人々である。昭和26年には第6回アジア大会(ニューデリー)に日本代表として田村恵(19年卒)が出場している。昭和28年、学生選抜として山口雄二(20年卒)、小田島三之助(24年卒)、小林忠生(主将・23年卒)が選ばれ、ヨーロッパ遠征、ドルトムント大会に出場。また、小田島、小林は全日本代表としてオリンピック予選にも参加している。
 昭和35年7月、第3回関東大会(水戸)に出場。レベルの高い埼玉勢を次々と破り決勝で市立浦和と対戦、1−2と惜しくも敗れたが準優勝を果す。
 昭和36年10月、国民体育大会(秋田県)に出場。1回戦で鶴ケ岡工に1−2と敗れる。明けて37年1月、第40回全国高校選手権大会(西の宮)に同メンバーが出場。
1回戦で同大会優勝校の広島代表修道高校と対戦0−5と敗退。その時の修道チームには、元全日本選手、現目本代表チーム監督森孝慈がいた。同年秋の国体にも出場したが、やはり1回戦で徳島高に1−2と敗れる。この頃県内では最強と言えたが、全国レベルではまだまだであった。
 昭和40年7月、第8回関東大会(水戸)に出場。1回戦で抽選勝ちをしてから調子にのり、決勝で帝京高校を1−0と下し見事優勝。翌年1月には全国選手権大会(西京極)に出場したが、1回戦で甲賀高校に0−0で抽選負けを喫する。これ以後全国大会には出場していない。
 昭和45年前後からは、県内での各種大会予選参加校が100校を超え、各大会代表の座をつかむのがむずかしく、ベスト4〜8位の力を持つが後一歩のところで涙をのんできている。
 現役サッカー部員は、立派な伝統を背に、多難な前途を克服しようと日夜頑張っている。二代にわたり、宮原、鈴木両専門家を顧問に戴き、環境については申し分ない。あくまで最高のものをめざす伝統のスピリットは今でも脈々と流れている。ひとたび中央に駒を進める機を得たならぼ、必ず風雲を呼び起こすと常々語り合っている。OB会も整備され、諸先輩の支援に応えられる日が来るのもそう遠くはないことだろう。
●歴代部長
 佐藤尚勝先生
 後藤基胤先生
 金持嘉一先生
 香川幹一先生
 浅沼早苗先生
 宮原孝雄先生
●歴代監督・コーチ
 岩渕二郎氏
 藤田得利氏
 嶋田正彦氏
 大埜正雄氏
 早川純生氏
 柳川明信氏
 宮原孝雄氏
●現部長、監督
  鈴木 中先生
●現コーチ
  武藤 俊一氏