元湘南高校長・サッカー部長
神奈川県サッカー協会顧門

香川 幹一

 湘南中学17年、それからサッカー歴40年、従って50余年の歴史のうち、僕の印象に焼きつくのは昭和21年国民大育大会が行われた第1回に、サッカーチームが全国優勝したことであった。決勝の相手は名にし負う神戸一中、部長は高山さんであった。決勝点3−2のうち、70%余は先方の攻撃で、30%が湘南の攻撃、到底かなわぬとあきらめながらも、力の限りをつくした事は事実であった。常に負け戦で、いよいよ最後に、桑田孝の右からのコーナーキックが、神戸ゴールの左上隅をぬけて、これが3−2の栄誉ある優勝戦となったわけだが、この感激は今でも忘れない。
特に目立ったのはF君の突進力、宮沢君の着実なプレー、松岡君を中心とする猪突猛進型。山中康央君の正確なバックスの守備、佐々木茂君の着実な補手、原田徳夫君のねばり、早川忠生君の球さばき、松清正美君のバックスの大蹴り、三橋弘美君のねばり、村主剛君の着実性など、みるべきものは多かった。いまその後を偲んでみても、よくやったものだの一語につきる。
 赤木校長は野球だけは在職中は禁じた。ボールを中心に、一人一人が注意しないと広い運動場が使えないからだ。そこへ行くとサッカーは、ボールが当っても痛くもない。それでサッカーを無上の運動とした。そのサッカーが野球より先に全国制覇をなしとげた事は、僕の長い生涯にとって、忘れることが出来ない喜びである。
2回生の岩渕君は私が小田原高校在職中、同校を強くしようとして、引張ったが、どうしてもこなかった。湘南以外にサッカーはやらないと堅く決心したのだろう。
神戸一中との決勝戦の時は、大埜正雄君が総監督で千田敬三君も部長、竹下直之君も部長であった。優勝旗を手にして、その夜、大阪に桑田孝君の父上が居られたので、大変なご馳走にあずかった事もいまも思い出す。
 総力をあげた優勝ではあったが、その報告を徹夜で書いた原稿は浜名湖上を通る鉄橋の音で、いまも残っている。その時、千田君が、香川さん未だ起きているのかとじっと、僕の涙と共に綴った文面を、熱い涙で眺めていたことを思い出した。
 藤田得利君も岩渕君と共に、よく面倒をみてくれた。藤田君はバックスを特に指導した。竹腰さんは松丸さんと共に、練習試合の批評をした。岡野俊一郎さんは、その後湘南で、関東サッカー大会があった時、講師として指導して貰ったのが最初で、僕の3人の息子の最後の弟(今オランダのアムステルダム駐在)のころである。
早川純生君は、初のサッカー理事長として活躍し、関根智治君が副理事長でサッカーでは目のない男、片岡次夫君とも友人になり戸田達雄君も熱心なサッカー顧問である。戸田さんとは、小田原高校時代の指導者として、小田原が湘南を負かしたころの指導者で、久保寺君(故人)とともに小田原の名指導者である。
 小金義照さんを会長としてもってきたのも、僕の力の一部とみてよい。小田原高校の古い卒業生の一人で、いまも名誉会長になってもらっている。河野一郎さん宅へも寄付金を貰いに行ったし、弟の謙三さんは平塚に住み、度々サッカーの事でお世話になり、二男稔の三井物産就職に当たっては、謙三先生にお世話にもなった。
つまり僕の77才までの人生は、湘南のサッカーのおかげが大きく左右している。従って今でもテレビでサッカーの試合となると、何をおいてもテレビに釘付けとなる。
それにしても桑田君の最後のコーナーキックの左上隅の1点が今日をして僕の人生をすっかり変えてしまった事を思い出す。
 岩渕君なきあとの湘南サッカーは、いまでも強いが、全国制覇には程遠い。鈴木中さんが一生懸命であるが、一人として湘南のサッカーを話してくれるものがいない、これは限りなく淋しいことである。
 千田敬三君は、戦争中すでに誰も学校に居なくなっても、破れたガラス窓があると、自分のガラスを持ってきて、コツコツと窓を完全に直し、遠くの山北まで帰って行った。香川さん香川さんと、いつも僕の家に寄って、サッカーの話をして、負けるものかと、勢よく家路を辿ったものだった。湘南高のガラス窓が戦後一枚も破れていないのは千田君の所能奉校の精勤を地で行った模範であると、いまも思い出している。