青春とサッカー

31回生 大内 健嗣

 入学時、10数人いた同期生も、3年進級時には、松居、酒井、田中、長谷川、浜野、大内の6人しか在籍せず前後の、30回生、32回生にくらべ約半分の人数でした。しかし、コーチには、岩渕先生をはじめ、着任まもない宮原先生、第27回生の柳川さんと、それぞれに個性の強い方々に恵まれ、よくどなられながら練習をしました。コーチの方々は練習中は、非常にきびしく鬼にみえたことも、しばしばでした。しかし練習や試合後は、大変たのもしく、やさしく思えた事も多かったと記憶しています。ある時など、藤嶺学園との試合前に「今日は10点以上入れて来い。得点出来たら1,000円やろう」といわれ、我々は夢中になって、確か10点とったと思います。
試合後、その1,000円を持って「松本屋」へ直行し、アイスキャンデーを、200本チームメート10数人で食べたことなどは、非常に楽しかった記憶の一つです。我々が3年生の時、国体が神奈川県で行われることとなり、地元開催ということで、サッカー代表として1校出場出来ることとなり、我々は勿論、コーチの方々も練習に身が入りました。この時はいくらどなられても、素直に聞け、一生懸命でボールを追いかけました。決勝戦まで進み、相手は翠嵐高校でこれに勝てば、神奈川県代表として国体に出場出来るというところまでこぎつけました。場所は県立サッカー場、(現在の体育センター)、快晴、応援団も多く我々も、コーチたちも、気合が入っていました。前年は0−0、後半も30分すぎていまだに、両校無得点、ここで信じられないことが‥‥‥
 当時、県立サッカー場はグラウンドが2面あり、我々の試合中にとなりのあいているグラウンド内で遊んでいた近所の子供が笛を吹いたのです。22人は棒立ち、誰がファールをしたのか、どちらのフリーキックか、と主審に目をやりました。しかし主審は、知らん顔しています。あわててボールに目をやった時には、すでに遅く、ボールは、自陣ゴールヘころころと入ったところです。とたんに、ゴールを認める主審の笛。1点とられたのです。あとは翠嵐高校の不必要と思える位のライン際での大きなクリヤー。時間かせぎのうちにゲーム・オーバー。我々11人は、お互いの頼も見ず、話もせずに応援歌を聞き、コーチの顔も正視出来ずに着換えたことが思い出されます。何故あの時プレーを中断したのかといわれても、攻められている時の主審の笛は、ある意味での味方と思えたのでは‥‥と、くやまれる試合でした。
 その年の暮、全国大会県予選で翠嵐高校には勝ちましたが、後のまつりです。
 思えば、1年の4月から3年の12月まで、わずか、33ケ月でしたが、思い出多い青春時代を、湘南高校蹴球部に籍を置いたことは、その後の人生においても、多いにプラスになりました。この原稿を書いているうちにも、石段の上でどなっている岩渕さんの姿がうかびます。