想 い 出

                      30回生  岡田 清治

 我々の時代は、岩渕大監督が湘南高校に勤務され始めた頃で、コーチには27回卒の柳川明信先輩、部員数約20名であった。
 29年5月16日、国体予選神奈川県決勝で茅ヶ崎高校グラウンドに於いて宿敵小田原高校と対戦した時、双方譲らず引き分けとなった。そして15分ハーフの延長戦に入り0−2で敗れてしまったが、その時やおら岩渕さんは主審に「大会規則に延長戦というのはない」とクレームされ、ややもめた後、日を改めて再戦ということに落着いた。その3日後敵地小田原にのり込み再戦を行ったが、先取点をとりながら1−2で敗れてしまった。折角の岩渕さんのクレームに報いることが出来ず誠に残念であった。この敗戦を契機に、岩渕さん発案の本邦初お目見得?のボルトシステムが当チームで実験された、これには当時の相手チームはどこも目を白黒、フォワードが6人、バックが6人居る様な錯覚を起しマークしきれず、こちらは何時でも1人か2人がフリーとなっていた。そのため連戦連勝、この勢いで東日本大会に神奈川代表として出場が決った。この大会は、7月末から8月初旬にかけて神宮競技場(現在の国立競技場)に於いて行われ、1回戦対本匠高校6対2、2回戦館林高較2対1と我がボルトシステムでなぎ倒した。3回戦はもう一つの宿敵であった教育大附属高校との対戦となった。2回戦までは好天に恵まれていたのに、この日はドシャ降りの大雨で、グランドも絵画館前のサブグラウンドであった。グランド一面水たまりでボールを蹴っても全々飛ばず、ゴチャゴチャやっているうちに自殺点(筆者スイーバーが、今までに一度ダケ!記録)、を含め0対4で敗れてしまった。
さすがの岩渕さんもガッカリ、我々もへトへトであった。後で岩渕さんは「あの雨でボルトシステムが、全く機能しなかった。もっと良い状態のグラウンドでやっていたら勝っていたはずだった」と言って慰めてくださったのが唯一の救いでありました。