昭和26年、そして30年後の今日

      27回生  小瀬村 秀夫

 部史については、多数の資料も出ている事と存じ、手元にある古い日記をめくるうち、たまたま、私がマネジャーも兼ねていた事からか、夏休み前の6月、7月の歴日にして50日間の出欠表が出て来た。試験と雨季又当時は5日制であり、練習日は24日間、試合1を含めて、半分しかボールを蹴らなかった事に意外さを感じさせた。
 出欠については下記
  部員18名(1年6名、2年4名、3年8名)
  出 席率 1年 57%
       2年 79% 平均78%
       3年 84%
 その間練習日使用ボール数、平均35個、少い時は2個、多い時で5個、戦後5年を経て、如何に脂をぬり、手入をしても、皮がのびて大きくなったり、変形したものが多かった。そしてその間、延20人の大学在学中の先輩のコーチを得ていた。
 その年の国体は広島、我々もそれを目指して夏の合宿等では、夢中でやったものであった。ちなみに結果は参加15校、Y校、厚木、神工、決勝で小田高を破り県代表になったが、南関東予選で、北園高に不愉快な敗け方をした。その年、第3回の全関東高校選手権が、湘南と片瀬中で開かれた、又大毎予選等もあったが、進学を前にしての試合は国体予選程でなかった。丁度我々の年代を境にして、併設中学を経て高校生活は3年間という、過度期であった。諸先輩の残した数々の栄光を追いながらも、果し得なかった悔は残る。自分からサッカーをとったら何が残るか?と思った青春の一時期を過ごしたものとして、それゆえのノスタルヂアからか、あまり強くなかった頃の友垣が復活した。「ペガサス」である。事務局に人を得て、試合の楽しみか、その後の夜を目的とするものか、何しろ面白いクラブが出来た。もう3年になるであろうか。亡き岩渕先生の肝入りもあって、その精神を最も受ついでいるという。自負も混じえて、何しろ50に近い初老から、30代後半の働き栄りを含めて数10名になるのではなかろうか。ペガサスの出来た動機も洒の上での事だそうだが、今年の蹴球祭の折も例の如く一寸一杯となったところで、サッカーの運動量についてゆけない輩から、ゴルフの話が出た。当を得た事務局からすぐに行動に移すのが頼もしい限り、早速、2月には、梅の香のただよう、Y君のメンバーコースのレインボウC・Cにて、第1回のコンペ、3組12名、チームプレイとは異る止ったボールヘの挑戦に迄発展した。勿論チョコの応酬はあるし、その夜もゴルフとサッカーの話で杯は大いに斜いた。これとても、今後共続くであろう。回を重ねる度にエスカレートするに違いない。サッカーの話がとんだゴールオーバーのシュートになったが、平素の仕事外の交際とはかくなるものかと「集えや我友」 最近はゲストも多く迎えているようだ。