第3回国体、幻の優勝

                      23回生 小林 忠生

 決勝戦の対手は、前年度全国大会の覇者であり、超高校級との評判が高かった、広島大付属高校で、特にRW木村(関学−全日本)、RI長沼(関学−中大、メキシコオリンピック全日本監督)CF樽谷(関学−東洋工業)のFW右サイドの突破カは勇名を馳せていた。一方我がチームも予選、本大会を勝ち進んで、必勝の意気高く好調裡に、この試合に、臨んだのであった。試合前のウォーミングアップも充分にやり、いざ決戦の時となったが、肝心の対手チームの姿が見えないのに気がついた。大会本部も慌てて、広大付高チームの宿泊先に連絡したところ、試合時間を間違えてまだ宿舎にいるという始末であった。遂に定刻を過ぎ大会本部から「規定によれば、対手が定刻迄に来ないので当然不戦勝になるが、それとも持って正式な試合を行うか。」との照会があり、岩渕監督と相談のうえ、勝算のあった我々としては、当然のことながら、試合をすることを選んだ。今なら全く考えられないことだが、当時の食料事情などもあって、この対手を待つ間に、弁当を食べて、英気を養おうと箸をとったが、その途中で対手が、現れたので、そそくさとキックオフに臨んだものであった。
 ひるがえって想いおこすと、昭和21年の第1回国体で見事優勝をなしとげたが、翌22年は国体に高校の部門がなく、代ってこれが最後となった第26回全国中等学校大会が開催されたが、県予選決勝において、10数年振りに、小田原中に1対0で敗れて終った。矢張り前年の全国制覇に慢心し、緊張感が欠けていたことが最大の敗因と大いに反省させられた。当時は、学校制度改革の時期で、23年に新制高校が発足したが、我々部員の5年生の大部分が旧制高校、大学予科への進学を断念し、前年の屈辱を期して高校3年に進んだ。前年の敗戦が、良薬となって、よく練習もし、気持の面でも、まとまっていた良いチームだったと思う。(なお当時岩渕先輩は、東北方面で電気関係の工場を経営されていたため常に練習、試合に来られるということはなく、折にふれ試合に来られて注意を頂いたり、手紙によって何かと御指導を仰いでいたが、云って見れば通信教育を受けていたようなものだった。勿論国体には、監督として指揮されたことは云うまでもない。)
 さて、この決勝戦の試合の方は前の試合で、LH小川が足の骨を折って終ったため、俊足RW木村のマークを誰にするか、苦慮した結果バックスの経験はないが、足の早い佐々木(LW)をLHに起用し、木村のマークに専念させることにした。当時我がチームはツーバックシステムをとっており、通常の試合では、SHは中盤でウイングとインナーをかけ持ちでマークするのだが、この試合に限っては終始マンツーマンでぴったりとマークさせた。これが一応成功して、突破カのある木村の足を封じたために、戦況は我がチーム優勢に進めることが出来、なかんずく、RW香川が好調で、再三好センターリングをゴール前に送ったが、逆サイドの詰めが、もう少しのところで合わず、多くのチャンスを逃して終った。そうこうするうちに対手にとっては殆んどこの試合で唯一と思われたチャンスをものにされて終った。すなわちハーフラインを少しこえた辺りでのFKが直接ゴールに達し、GK川島がジャンピングキャッチして降りたところを対手、FWに押し込まれ、ボールを抱えたままゴールラインを割り無念の失点となって終った。現在のようにGKが、極めて保護されているルールのもとでは当然ファウルの笛が鳴ったであろうが、当時としては極めてあたり前のチャージであった。
 優勢に試合を進めながら、あたらチャンスを逸し、一方数少ない対手のチャンスをものにされ泣けない敗戦であった。今になって反省してみると、パスを廻すことに精力をさきすぎ、試合の流れをかえるためには個人のドリブルで強引に敵陣を割りゴールを狙う図太さがあってよかったと後悔される。さればとて、規定通りに不戦勝即国体優勝の道を選ばず勝負を挑んであたらたら優勝を失うことになったが、勝利を信じて、我々の若い青春を賭けて敗れたことに悔いはない。敗れたとはいえ、矢張り試合をしてよかったと、今でも確信している。