全国優勝前後の思い出等

22回生  松浦 正美

 戦争中、勤労、学徒として約2年間、各クラスが分散して、各地の軍需工場で生産に従事していた我々は、ボールも靴もない物資不足の中で、休憩時間になると、ゴムマリでもポロ布でも、玉の様なものを捜して来ては、即席のゴールを想定して、サッカーをしていたものです。
かくて終戦を迎えた訳ですが、1級上の21回生が、戦時短縮で20回生と共に巣立っていましたので、我々4年生が最上級生、当時の在校生は1200名位であったと記憶しています。第2学期開始早々、生徒全員が、いずれかの運動部に所属するよう要請があって、各運動部が戦後復活の第1歩を印した次第です。サッカー部(当時は蹴球部と称していた)は第1歩を踏みだした段階で約100名近い参加者が集まった位、人気の的でした。もとより用具不足は避けられず歪なボールや破れたボールも修理して使用しました。部員のいでたちも、今にして思えば、珍妙そのものの有合せスタイル、ボール不足の関係から、当時の1、2年生は練習時間の大半を、我々上級生のためボール拾いに費していただきまして、今でも気の毒に思ってます。当時は極度な食糧難時代でもありまして、弁当はいつも豆や芋まんじゅう“引地の大福”は先輩達の語り草でしかありませんでした。物質的環境が、最悪状態に置かれていた点は以上の通りでしたが、有難いことに、先生、コーチの先輩方には誠に恵まれまして(当時は“恐”“強”“怖”“畏”〜い先輩?)香川先生、大野監督、を中心に、服部、小熊、安保、戸沢、早川、田村兄弟、海老原兄弟、小野兄弟、山口先輩各位等々、紙面に書き切れない程、幾多大勢の先輩、諸公が、連日の如く来校され基本のイロハから、力学的理論、作戦基礎、体験論等を盛り込んだ誠に、熱心なコーチを受けたものです。紙面上で恐縮ですが、改めて先輩、諸兄に厚く御礼申し上げます。
遂次用具関係も整備され、写真で御覧の通りヤボッタイ(当時は最高ファッション)ながらも、香川嵩キャプテンを中心に、チームらしいチームに成長して、常勝湘南が形成されていくのですが、優勝の瞬間の涙は又と味うことの出来ない種類の涙として、鮮烈な印象となって脳裏に焼き付いております。喜怒哀楽を超越した涙とでも申しましょうか、放心の涙とでも申しましょうか、今でも説明出来ない格別の涙でありまして暫しの後、漸く嬉しさと感激が実感として込み上げて来たのを忘れ得ません。いずれにしましても、戦後の政情混乱、物資不足の渦中、悲願の優勝は、前述の如く諸先生、諸先輩方全員の努力が凝集、昇華した成果であると信じて止みません。
 優勝後は県内各中学校サッカー部からの招待試合に忙しく晴々しい思い出が重なりました反面、大学進学が一苦労、諸先生のお情けで良い点数を頂戴した割には、中味が薄く、山口雄司先輩(現明治大学サッカー部総監督)との出合いとなって、辛うじて、明治に入学することと相成ったのですが、これが機縁で以来30有余年、未だに強い絆の切れないご縁となって居ります。山口先輩の最近の述懐に湘南サッカー部に在籍していて、しみじみ良かったと思う。小西、小林(敬称略)の素晴らしい同期生に恵まれ、香川先生、浅沼先生その他の諸先生及び、岩渕、安保、大野、田村、早川等幾多の諸先輩に、可愛がられ特に、湘南地方で商売をしていると、目に見えない恩恵を最近では、ひしひしと感ずるとか…… 今後OB会の結束、確立と共に非力ながら一員として、参加させて頂くと共に、湘南サッカー部の栄光への階段が再び拓けていきますよう心から祈ります。