終戦から全国制覇まで

             22回生  香川  嵩

 昭和19年6月からは工場への学徒動員となり翌20年8月の終戦まで蹴球部の活動は途絶えたが、終戦と共に当時の最高学年、我々(4年生)が中心となって活発にボールを蹴り始めた。それから翌21年11月3日の全国制覇までがいわば、戦後の湘南蹴球部の再建期ともいえる時期で、その時のことを思い出すままに書く。
 私自身は海軍兵学校から20年10月1日に、湘南中学へ復学したが、その時すでに桑田主将を中心に蹴球部の活動が始まっていた。工場動員やら、爆撃やら戦争中の抑圧された生活から、解放され母校の広い校庭に戻って伸び伸びとボールを蹴ることのできる解放感にみんな満ち溢れていたように思う。チームを編成するに当たって籠球部にいた(当時)早川忠生君をくどいて成功したのもこの頃である。4年生から桑田、海老原、宮沢、松岡、山中、松浦、矢住、ゴールキーパー佐々木(茂)それに私、3年生から早川、佐々木(道也)、三橋、原田、下、の諸君により戦後最初のチームができ、毎日のように練習を重ねた。2年生には小田島、村主、香川(稔)1年生には石原慎太郎君もいた。ボールや靴を自分でつくろいながらの練習だった。
さてチームはできたが終戦直後で他校がまだ立ち直っておらず、何とかして他校との試合をしたいというのが一同の念願であったところ、湘南OBの服部氏が主将をしていた旧制第一高等学校のサッカー部との練習試合ができることとなり、20年の11月3日に湘南のグランドで手合わせした。これが最初の対外試合であり、戦前の伝統を復活、発揮すべく大きな気負いでのぞんだものの3対1で敗けて大いに気を落した。私自身はその翌12年からその一高のチームヘ入ることになり、当時の相手方の連中と今も親しくしているが、ボロボロのシャツと地下足袋をはいてグラウンドにあらわれた一高側にとっては、サッカー靴と揃いのユニフォームに身をかためた湘南勢は驚異であり、戦後初期の印象的な試合だったという。
 昭和21年春からわずかな参加校ではあったが県下の中学校のリーグ戦が復活、小田原中学、鎌倉中学等と対戦し、連戦連勝の強さを誇った。新年度、主将海老原(朗)君は途中で水戸高校への進学がきまり、あとは私が主将をつとめた。先生では、香川幹一(地理)、千田敬三(英語)の両先生が、熱心に蹴球部を育てた。浅沼先生はすでに終戦の年学習院へ転じておられた。また、夏の練習には、東大OB三上一郎氏、秋に入ってからはゴールキーパーのコーチとして、金沢氏を東京から迎えて練習にはげんだ。そしてこの間、戦地から復員、復学して来た、様々の先輩たちも母校のグラウンドヘあらわれるようになり、練習時のグラウンドもにぎやかになった。当時福島県にいた岩渕さんも時折現れ、或は手紙で激励された。
 この年の秋、第1回の国体が兵庫県で開かれることとなり、中学校のサッカーは東西日本から1校づつが出て、国体の場で決勝戦を行うこととなった。われわれはこれを絶好のチャンスと闘志を固めた。先輩間の打ち合わせで監督には大埜正雄先輩が選ばれ、大埜さんは毎日のように鎌倉から放課後のグラウンドヘ現われ、我々を熱心に指導された。
 正確な記録が手元に残っていないが、県下予選を大量得点で勝ち抜いて、高師付属、浦和、韮崎、真岡などに勝ち、東大御殿下グラウンドでの東日本決勝では、仙台一中と対戦、延長の末1対0で東日本代表となった。関東予選以降は、韮崎(6対1と記録)をのぞいて、何れもかなりの接戦であり、特に体力のまさる真岡中学との雨中の試合は2対1の辛勝だったと思うが、相手の力強さにおどろいた。
10月末、香川、千田の両先生と大埜監督に連れられて、この年出来た応援歌「緑濃き……」に送られて、満員の夜行列車で大阪に向い、大阪肥後橋の出雲や旅館に合宿、試合前日の練習を決勝戦の相手神戸一中のチームが見に来ていよいよ、明日だと緊張した。
 国体での神戸一中との決勝戦は、11月3日1時半から西宮球場の南側のサッカー場で行われた。試合開始後、敵はやはりなかなか強いなと感じたのを覚えている。果して前半は1対0でリードされ、後半風上に陣して逆転、3点を奪い3対2で勝ったわけだが、追い越しの3点目は、タイムアップ1分前に、RW桑田の右タッチライン沿いからのロングシュートがゴール左隅に決まった劇的なものであった。ラッキーな勝利ともいえるが、一方右と左の両ウイングの対照的な形のすさまじい突進カと中央フォワードの得点カと堅実なバック陣の総合的な実力による全国制覇だったと思っている。終戦直後の混乱期、まだサッカーをやる余力が国中に満ちていない時期の勝利ではあったが、県下予選から、優勝まで総得点40数点、失点5点位のスコアだった、そしてこれを契機にに昭和20年代湘南のサッカーは、何回目かの黄金時代を迎えた訳であり、以後大学リーグでの湘南OBの活躍もめざましいものとなったのである。
 なお、決勝戦のメンバーは次の通りだった。
キーバー佐々木、フルバック(右から以下同じ)山中、松浦、ハーフ原田、松岡、三橋、フォワード桑田、下、村主、香川、宮沢、補欠小田島、香川。なお東日本決戦までCFとして活躍した、後半のオリンピック選手早川忠生君は、西宮へ出発前の最後の練習で負傷し、決勝戦当日はスパイク迄はいて見たもののプレーは無理で出場できず、急拠3年生村主君をCFに起用したという一幕があった。優勝のしるしは、一枚の紙の賞状であった。それをもって帰って体育館で全校生徒に報告会を開いた。全国優勝を遂げてから、その年度の終り迄に、又いくつかの県下での試合があった、厚木中学に同校グラウンドで13点、横浜一中に、浅野中学のグラウンドで9点などとったように思う。
 随分昔の話を書いたが、ここに名前の出て来た人々にとってはやはり忘れ難い痛烈な体験であったはずであり、湘南サッカー部の歴史の大きな1ページであったことは間ちがいない。