戦時下とサッカー

                        18回生  早川 純生

 昭和16年12月の大東亜戦争の開戦を前に1年間は、国全体があわただしかったのか、全国大会はなかった。しかし明けて17年は落ち着きをとりもどした1年と云えるかもしれない。
 前年度のチームが5年生主体であり、優れた選手が多かっただけに、新しいチームをどのようにまとめたら良い成績を残せるかが大きな課題であった。
 5月の毎日新聞のトーナメント大会には、5年3人、4年4人、3年2人、2年1人という若いチームながら決勝に進むことができた。久しぶりに決勝にでてくる鎌倉師範が、何としても勝たんものと湘南の練習を見に来たり、こちらも見に行ったことを憶い出す。決勝のグランドは、接収されたYCACのローングラウンドであった。当時、ローングラウンドで試合できる機会は絶無に近く、夏の甲子園の全国大会(陸上競技場の内側)、冬の明治神宮競技場の関東大会だけであった。そんなこともあって、皆のフットワークはよく、RW小西(3年)のセンターリングをLI田村(4年)がゴールポストの下に決め、その後もよく頑張り、前後半ともに2対1、計4対2で優勝できた。
 続いて7月下句には、全国大会の山神静予選が湘南で開かれ、甲府商業を2対0、志太中学(現在の藤枝東高校)2対1で敗り、苦戦ながらも全国大会に出場できた。前年の強力チーム時、理由は忘れたが全国大会がなくなり残念な思いをしたのが思い出される。志太中学には、後に日本代表となった松永君(早大−日立)がCFにおり、1年生位だったが、よく声をだしよく動きまわっていた。7月の暑い日に3チームが1日で代表をきめるため、各チームともダブルヘッダーであったが、湘南は第1、第3試合という良い条件もあり、相手の疲れもあったのだろうか、LW服部のセンターリングをGKがハンブルしている(上にボールをはじいた)ところをGKごとCF早川が押し込んで代表となることができた。
 8月の全国大会は、戦時下のこともあり、文部省の主催であった。12チームの参加で修道中学に敗れて、第3位となった。当時の交通機関は、東京〜神戸間に、特急つばめが走っていたが、大船発6時、大阪着17時の普通列車で参加したように思う。大船出発のとき、富岡先輩から鎌倉ハムの差し入れがあったように思う。
 秋のリーグ戦には勝ったものの、明治神宮国民大会(現在の国体の前身)には関東予選で敗れ、続く関東大会には、2年続けて持ち帰った優勝旗を何としても守ろうと練習に励んでいたところ、大会の一週間位前に中止の報告をうけ、安どの胸をなでおろした。この大会の前、12月1日には、GK川口(5年)が海軍兵学校に入校したため、その穴を如何にうめるか頭痛の種であったが、上の通り優勝旗は残ったものの、火事で灰になってしまったらしい。
 当時の部長は、香川先生、また浅沼先生(現在学習院)もよくグラウンドに現われて激をとばされた。高師じこみのサッカーを我々に教えて下さった阿部先生は、硫黄島で戦死されたと聞く、練習後にもいろいろと教えていただいただけに懐しく思い出される。誌上を借りて、先生の御冥福を祈りたい。
 約35年の昔のことではあり、当時の記録を残していないため、一部に思いちがいがあるかもしれないのでお許しいただきたい。それでも、ある瞬間がパット、目の前に出てくることがある。そして、あんなこともあったなあと、湘南サッカー部の楽しい思い出がよみがえってくる。
 多くの先輩に励まされ、教えられ、今日までサッカーの良さを楽しむことができたことを感謝します。