蹴球の思い出

 17回生 河西 克郎

 私には子供が無いので今の中、高校生の生態は殆んど解らない。私は中学、高校(共に旧制)を通じて6年間蹴球をして来たのであるが、その間ゆっくり休暇を楽しんだ気憶がない。春夏冬の休暇は殆んど練習に費やした。放課後から日没まで練習、日曜日は殆んど試合である。春から夏の期間の帰宅は午後8時過ぎ、5、6杯の飯を食ってデーンと寝るだけ、従って予習、復習をする習慣は全くなく学業は常に出たとこ勝負。サラリーマン生活でも同様死ぬまで続きそう。お蔭で博才は万成強化されたようだ。
 時あたかも、日支事変が次第に拡大し第2次世界大戦に序々に近づきつつあり、軍部の独裁体制と共に統制が強化され、一般の社会生活においても、物、心共に窮屈になりつつあった。
 当時我々学生生活に最も恐れられていたのが指導教官である。日常の生活行動を監視監督するものである。何しろサッカーの練習を終えて、空腹を抱えての帰路にも自由に飲食店に入る事はおろか、駅弁を買う事すら監視の目を盗んでしたものだ。多分4年生の頃だったと思う。横浜2中で試合を行った後、伊勢佐木町に繰り出し、当時としてはしゃれた店であった不二屋で、昼食をして、映画を観た。「紅の翼」なるアメリカ物、観て気分よく帰って、翌日、全員職員室に一日中立たされる仕儀に相なった。やはりある指導教官に見つかったのである。ここでその当時の悪友共を紹介しよう。
 まずセンターハーフの保利恒一、小学校時代からサッカーをしており入学当時から有名で1年生からレギュラーであった。我々のエースではあったが、何分色男で女学生とデートして危く、首になりかけた事があった。
 次は一卵生双生児、異色の小野嘩、勝兄弟である。容貌全く同じ二人が左のインナーとウイングである。敵は万成、まどわされたようだ。技もなかなかなもので、二人のコンビネーションワークは、見ごとだった。共に真面目な青年だった。
 海老原謙、猪突猛進型の性格がそのままプレーに出る。右のウイングで、私の左からのセンターリングを突進、へティングでゴールをきめた率は高かった。
 土屋義彦、我々の仲間では、最も小粒であったが、なかなか器用で、小枝に長じていた。右のインナーでこまめに活躍していたが何分癇の強い、わがまま坊やで扱いが難しかった。
 左のハーフバックは私である。生来運動神経がにぶくて、下手なプレーヤーであったが体力と忍耐で何とかそれなりにこなしたと思っている。
 菅原留意、右のハーフバックである、体が柔軟で執念深く執拗にタックルを敢行していた光景が印象的だ。若干変わりもので、当時はサッカーを止める止めないで時々もん着を起していたが、社会人になってからも熱心にサッカーを続けているようで世の中は不思議なものだ。
 右のフルバックは太田、体力と馬力は随一、ヌーボーとしたさっぱりした男だった。我々が5年生の時には、これにセンターフオワードの早川、右のハーフバックが海老原(弟)、キーバーは川口と云う顔ぶれだった。コーチだった人々もサッカーのために生れて釆たような熱心な先輩が次々と現われ、大いに鍛えられた。先頃亡くなられた岩渕氏、通称ライオンこと藤田氏、島田氏、大学の現役選手だった有馬氏等が思い出される。チームワークも良かった。気の合った連中だけのクラブの様な雰囲気だった。神奈川県では4、5年生の頃は負ける事を知らなかった。当時の蹴球部長香川氏を始め関係者は、勝つのが当り前で負けると悪い事をしたような気がしていた。私は3、4年生の時、続けて甲子園の全国大会に出場したが、朝鮮勢にコッピドクやられ、その普成中学とか哉済中学が毎年優勝していた。4年生の時だったと思うが、キックオフするや得意のパスワークで、数十秒で1点をとった。これはいけるぞと喜んだのも束の間、たちまち敵の猛攻にかなわず8−1で敗れてしまった。無論、敵は朝鮮勢で普成中学だったと思う。鋭在日本と韓国の試合でも残念ながら彼等の方が一枚上手だ。
 全国大会出場には、山梨、神奈川、静岡県のいわゆる山神静の代表になる必要があった。山梨県は、韮崎中学、甲府商業、静岡県では刈谷中学、志太中学が、地方予選の常連だった。当時我々のサッカー生活は、春秋の県内リーグ戦、夏は地方予選に続く全国大会、一年の締めくくりとして年末に行われる全関東中学選手権大会という事であったが、全国制覇はもちろんであるが、先づ関東の選手権を手中に収める事が湘南蹴球部の悲願であった。当時は中学校の部に師範学校が参加しており、平均年令が高く、体力が優り技術的に強力で、青山、豊島等の師範学校が殆んど、優勝をさらっていた。
 我々5年の最後の試合として、昭和16年12月30日に優勝戦を相手は多分、青山師範だったと思うが、行った、延長2回、冬の日は早く、スタンドの影が殆んどグランドを包み、寒さで上半身は無感覚になったが、足は自動機械のように動き廻ったが、2時間に及ぶ戦いも、我が方のへディングシュートで結着がついた。悲願がかなったのである。
 私のサッカー生活で最も印象に残る出来であったと今でも、その時の光景が日に浮ぶ。