若き日の思い出

                     15回生 田村 皓

 昭和15年卒業の私達にとって最も印象的な思い出は、昭和14年夏開催された全国中学蹴球大会の第2回戦で東京代表の優勝侯補の青山師範を4−2で破った試合と、準決勝戦での京都代表聖峯中学と激しいシーソーザームを展開し2−2のまま再延長戦を繰返したが勝負がつかず、結局抽選で勝負を決めることになった。私がスタンドを埋めた多くの観衆の見守る中で負選を引く破目となり涙を飲んで球場を後にしたのである。
 次にその宿敵聖峯中学を同年秋開催された明治神宮大会の準々決勝戦で4−2で破り復讐した試合であった。
 まず対青山師範戦であるがそれまで、年令的にも肉体的にも勝る青山師範、豊島師範、埼玉師範には、毎年関東大会で苦汁を飲まされていた。新聞その他一般の予想では青師有利と思われていたから湘南チームが勝ったことは番狂わせであったかも知れないが、私達にとっては非常に嬉しい出来事であった。この試合での殊勲者は1点目を入れた左足シュート専門の樋口君とフルバックの長島君であった。
 青山師範はFW橋立君、CF太田君と云う当時大学級名選手を擁した強力フォワードを持った強敵であったが、前半長島君がヘッディングの競り合いで、橋立君の額に激突し負傷させた。彼は出血のため顔半分を包帯で巻いたので片目が見えず、その結果、敵の攻撃力が急速に衰え我々のペースにおちいり、遂に我々が勝利を握ったのであった。
 次に準決勝戦での聖峯中学との試合であるが、小野嘩君がヘッディングシュートのボールを左ゴールポストを15cm位外したため、延長戦にもつれこみ、結局抽選負けとなった訳だが、今だに当時の連中はこの光景を覚えている。
 宿敵聖峯中学を同年秋開催された明治神宮大会でセンターフォワードの安保君が頭の後に目が付いているのではないかと思われる後向きのロングシュートで先取点を入れてから我々チームの意気が上がり遂に甲子園の恨みを4−2で果すことが出来た。安保君のフェイントモーションを使ったドリブルは名人芸だと全国的にも、有名であった。この試合前に岩渕先輩の奥さんから沢山の鰻の蒲焼の差入れがあり出場選手一同賞味させていただいたがこの鰻のエネルギーが勝利に結びついたのかも知れない。
 当時フォワードはWシステム、バックはスリーバックまたはツーバックシステムが流行していた。
 我々湘南中学のフォワードは他校に比べ背が高くなかったので空中でのボールの競り合いは得意でなかったから逆モーションを使ったトライアングルパス、またはチェンジポジションプレーで敵のバックを翻弄させ敵の疲労に乗じ安保君、小野勝君がシュートし得点を重ねるパターンであった。
 大埜君の低目の強烈なシュートはその当時から有名で、彼がその後長い間全日本の代表選手で活躍出来たのも、快足とそのシュートの賜物であろう。
 小野君兄弟の華麗なフットワークは中学3年生とは思われぬ見事なものであった。バックスについては、4年生の小熊君と3年生の保利君の執拗なタックルとロングシュートカは相手を随分苦しめたものであった。
 前述の明治神宮大会の四国代表の対高松中戦では前半、我々のフォワードが3点入れたので敵は全員防御に廻りバックからのパスが通らぬので我々バックの私と小熊君、保利君がそれぞれ1点づつロングシュートを入れ結局6−0で勝つことが出来た。
 フルバックの長島君のことは前述の通りであるが戦後、満死された市川君は非常に真面目な性格の選手であった。
 大型のゴールキーパーの奥本君は非常に勘の良い選手であったが、味方が強かったので余り苦しまずに済んだのではなかろうか。
 最後にマネージャーの内田君はあの当時から良く選手達の面倒を見てくれたので我々の仲間一同感謝している。彼が現在でも鎌倉の子供達のサッカーの指導をしているが、サッカーの技術は当時から毎年進歩しているように見える。
 終りに以上の様な良き思い出を与えて下さった赤木校長、香川、浅沼両先生、および直接コーチしてくれた岩渕、藤田、島田先輩、その他湘南のサッカーの基礎を造って下さった多くの先輩、後輩の方々に感謝しつつ、筆を置く次第です。