サッカーと戦場

12回生  園田 嘉高

 時は昭和18年8月、私は浜口飛行場にて在支米空軍相手に独立飛行第18中隊整備班にて戦っていました。当時、漢口は空軍の戦いでは最前戦であり合計62回の空襲に遭遇しましたが、敵機来襲の情報を受けて敵機を待っ間は味方の戦斗機も迎撃のために飛び去り、飛行場は沈黙と静寂に置かれ、唯夏の太陽のみがむせかえる飛行場の草原に照りつけるのみで、敵機来襲を目前にして異様な静けさにつつまれるのが常でありました。この様な死を目前にして塹壕に待期しながら脳裡に浮び上がるのは、湘中へ行く道中の菜の花畑のかげろうにゆれる黄色の波と、清くすんだ小川のせせらぎでした。又この戦場で味方の戦斗機を送り出し飛行場を守る気分は、サッカーのゴールキーパーが敵の来襲を待ちかまえる気分によく、似たところがありました。
 さて私は、そのゴールキーパーを最初から拝命し、最後までキーバーで終ってしまいましたが、我々の年代は戦争で同じチームの者及び同クラスのものが多数戦死されており、私も青春時代を戦地で過し敗戦後故国へ復員し、荒廃したふるさとであくせくしている中に30余年がすぎ、今日に至ってしまいましたが、60才の最近になって最も懐しく感じられるのは戦地で生死を共にした戦友たちと湘中サッカー部の戦友たちであります。どうしてこの様な懐しさが生れるのかを分析して見ると、戦地における状況はあらゆる利害関係もなく、人間的上下もなく、ライバル意識もなく、ただひたすら生死を共に敵に対していた人間関係であったためと思われます。毎年戦友会が催されますが、いつでも戦友というものは特別他にない懐しさがあるものです。それと同じくサッカー部の戦友諸君も懐しく、この壊しさも一つの目的にすべての雑念を払って全力をつくして戦った、戦場の状況と似たものがあるためと思われます。
 現在の平和時の一般社会に於いてもこの様な人間関係が生れる様な社会があればとづくづく考えさせられる昨今です。