湘南中学の4年間

8回生 渡辺 真


 母校のサッカー部は東京高師のサッカー選手であった後藤先生が湘南に赴任された時に初まったと聞いている。
 私が入学した昭和3年時のキャプテンは、高梨(4回)先輩、次いで大口(5回)、藤田(6回)、山中(7回)各先輩主将のもとでサッカー生活を送り、4年修了で、山中先輩と共に、北大予科に入学し湘南を去った。
 私と同期(8回)では、永楽君が主将となり、島田君(9回)、古賀君(10回)と続いていったと思う。
 部長は在学中を通じて金持先生であった。当時、後藤先生は、転出されていたが、試合を折りにふれ観戦され、その都度、試合のあとで呼ばれて、叱言を頂戴した記憶がある。
 在籍中一貫してコーチを受けたのは、岩渕先輩(2回生)であった。岩渕さんの岩を頑固の頑に通わせて、“ガンブチ”さんの敬称を捧げていたが、恐しくも亦なつかしい先輩であった。
 数年前、神奈川県の四十雀チームの監督をして、来道された折に、札幌でお会いした時には、昔の面影はすでになく、好々爺的感じを受けたが、これが最後の出合いとなってしまった。昭和4年の元旦、学校の式が終って帰ろうとしたら、ユニホーム姿で、一人スタンドに向って球を蹴る岩渕さんの姿を、グランドに見掛け、少年乍らこの先輩のサッカーに寄せる執念のすさまじさにびっくりしたものの、元旦早々から、ドナラレたくないという意志が働いて逃げ帰った記憶がある。
 このガンブチさんの気迫と昭和5年から迎えた当時の、極東オリンピック日本代表選手、若林、野沢、両氏(東京帝大チームのメンバー)による技術指導が、効果を現わし昭和5年初めて、神奈川県下を制覇し、全国中等学校サッカー選手権大会でも準優勝の戦績を残し湘南をして、初めての黄金時代を迎えている。その時のチームは、木村(6回)、小熊(8回)、笠原(6回)、樋口(8回)、駒崎(6回)がフォワード、キャプテンの藤田(6回)がセンターハーフ、フルバックは、麻生(6回)、山中(7回)であり、ゴールキーパーは松岡(6回)であった。
 昭和6年は、全国大会決勝戦で引き分け、翌日の再試合2回目の延長戦後半で1点とられて敗けてしまった。これが私の湘南に於けるサッカー歴であり、湘南中学サッカーの歴史でもある。
 湘南を去って、50年近い歳月が経ってしまった。山中先輩は、北海道サッカー協会長、札幌サッカー協会長として永い問、北毎道サッカー界に貢献されていたが、今春引退され、近く富山県在住の長男のもとに移られることとなっている。
 私は、戦後山中先輩のすすめで帯広サッカー協会を創設し、会長となり今でも、サッカーとの縁を切れないでいる。
 帯広市開基80年記念事業の一環として、ヤンマー対三菱の試合を帯広市で開催、15万都市の帯広で1400名の観衆を集めたことは、地方協会長としては、出来過ぎた思い出であり、1400名を相手に晴々と開会の挨拶をしたことは晩年の私にとって良き思い出となっている。私は少年期からサッカーに親しみ、サッカーを通じて人間の触れ合いを持ち人世を豊かにくらせた事を感謝している。
 最後に母校チームの向上を心から祈念しておく。