50年前の小礫

7回生 府川 夫壬家寸

 50年前の事を想い出すのは大変難しい。何故ならば脳細胞は同一事柄を7年間以内に1回以上想出さないとその記憶細胞を消滅させてしまうらしいからである。半世紀の向うのサッカーに関する記憶は極めてうすい。それに私は「下手の横好き」であるだけで生来の移り気から本気で打込まず遊んでばかりいたので、正選手にもなれず人生の一駒としてのサッカー試合のメインイベントに恵まれなかったことにある。唯、試合中は身体ごとぶっ突けて行く斗志満々タイプであった事は間違いない。後年進学してからもサッカーチームのメンバーとして、現在の浦和高校と散々練習試合をしたが勝った事がなかった。
 湘南中学へ行くのは私に取って楽しみであった。今は勉強に忙しいようであるが、私などは学校で運動をし、飛び廻り、いたずらをすることが主で、先生によく叱られたが全く楽しいことであった。反面学業は相当下ったが、後年社会へ出て頑張りの利く精神力の持主になり得たのは、サッカーと云う身体をぶっつけていく運動が身についたからであろう。湘南が優勝したのは私たちが卒業してから相当後の事である。私達の在学中に、対神中戦などで、笠原、藤田、駒崎の話先輩や、外岡、松木、樋口の諸氏(他の方のお名前は忘れてしまったようです。)の活躍にも一様の声援を送った。
 若林竹雄さんが湘南に来たのを覚えている。鼻すじの通った背の高い人のような気がするが何しろ52年前の事ですから悪しからず、岩渕先輩は身体のがっしりした人のように思います。直接御指導を受けなかったのですが、正選手の諸君を教えている姿を見ました。大変球さばきの巧い人だと畏敬の念を持っていました。
 半世紀前の記憶に残るものは、あのスタンドと芝生、プールと脇の松の木立、更に正門の左右の楠の大木、当時は松林の隅の方に植えられていた細い木であったと思うが或は思いちがいかもしれない。今も絶対変わらないものが3つある。1つは天城と箱根の鞍部に沈む秋の赤い太陽、烏森の姿、そしてもう1つは、私の右目の中に残っている運動場の小礫である。この小礫は、サッカー試合中に斜横から飛んで来たボールが振向いた私の顔をかすめ、その上に目を痛めたときのもので、今でもピンセットで挟めばパチンと音がする。大切なサッカーの記念として残しておく積りである。(医者はムリに取らない方が良いと言ってくれた。)