湘南4人組の欧州遠征

6回生  常磐 嘉一郎

 なんとなく日本人ばなれしたタイプの真黒な顔で、ちょっと近寄りにくい。私が岩渕二郎さんにはじめて御目にかかったときの印象であった。
 湘南在学中は、1年の末頃から蹴球部に入れてもらったが、なにしろ上級生と新入生徒とでは、まともに話をすることなど、もってのほかであったし、当分は球拾いばかりで直接に口をきくこともなかった。そのうちに岩渕さんは卒業されるし、私は万年補欠のまま正式の試合にはほんの1・2度出してもらったきり。4年終了で高校へ入ってしまった。したがって、岩渕さんとは全く緑が切れたまま、40年以上も経ったことになる。ところが数年前、なんでも寒い頃だったと思うが、突然岩渕さんから手紙が届いた。湘南のサッカー部が最近あまり思わしくないので、強化育成のため先輩の一人としてたまには、グランドヘやって来い、ついては別紙の通り何月何日に試合をやる。こんな内容であったと記憶している。とにかく当日行ってみると、天野大先輩をはじめ、岩渕さんほか数名の方々が観戦中であった。その折に、戦前のインターハイの話が出て、たまたま、私がその名簿をもっており、しかもメンバーには湘南出身者が多数いるということから、それをぜひ入手したいとの御意向だった。それが私と岩渕さんとの再度の縁で、以来何度か湘南高校での御目にかかる機会をもった。
 さる、55年10月下旬、ノコさんこと竹腰重丸氏の御葬儀に列して、計らずしも、天野大先輩に御目にかかったが、そのとき私は天野さんと岩渕さんとが、ダブって見えたような気がした。天野さんには申訳ないが、つまり私の湘南中学蹴球部の思い出は、岩渕さんなしには考えられないからなのである。
 前期の旧インターハイの連中が、最高年令70才、最低でも50才という顔触れ、26名で、ヨーロッパ3ケ国(オーストリー、スイス、西ドイツ)の同年令チーム、しかも相手側はすべて、往年の職業チーム出身者と対戦をすることになり、これも岩渕さんの知友であり、球友でもあるまた藤沢四十雀チームの瀬藤進一氏を主将として55年の7月、はるぼる遠征に出かけたが、なんとそのうち、4名までが湘南出身者だった。GK服部斐夫、DF田村恵、MF藤田貞美、MF常盤(私は全員の年長順位4番、67才であった)とすべて岩渕さんの門下生である。かつての宿敵、東京高師付属中学からも数名来ていたが、なんにしても岩渕一門がこんなに揃ったのには驚いた。やっぱり湘南のサッカーから岩渕さんをとったら、何も残らないといってもよいのではなかろうか。
 先般55年5月に行われた、慰霊祭の折、どなたかの話にもあったが、岩渕さんは「日本の」とか、「神奈川の」ことかというのではなくて、ただひたすら「湘南の岩渕」であったのだ。そしてそのことが我々湘南出身者にとっては、まことに神格的な存在である岩渕さんなのである。古めかしい言葉だが、私はあえてこれを岩渕さんの御遺徳と言いたい。今般学友後輩のうち安保氏、内田氏など主だった方々が岩渕さんの記念事業として、母校にシュート板を設置されたが、私のいう御遺徳を偲ぶ最適のことだと信じ、湘南高校の存続するかぎり、いつまでも岩渕さんの見守って下さるサッカー部であってほしいと念じている。