50年前に思いを馳せて

6回生  駒崎 虎夫

 何か書こうと思いながら締切が数日後になってしまった。今月に入って、日本サッカー界の元老、竹腰重丸氏と慶応時代の球友、西沢(旧塚部)得三君が相次いで亡くなって、岩渕さんの訃に重なり愈々寂しさを感じている。
 さて、湘南時代からの自分のサッカー生活を振り返って見ると、まあ陽の当る場所を歩けて幸の方だったと思う。
 湘中入学時はサッカーがどんな競技であるかも知らず、まして興味のかけらも持っていなかったが、鎌倉から通学したので、当時、鎌倉在住の最上級生、岩渕さんと、同級の木村君(故人)が師範付属出でサッカーを知り、お二人の説得で、麻生、松岡(共に故人)君と一緒に蹴球部に入った、もっとも、1・2年生の頃は、正科であった剣道・柔道もやらねばならず、そちらでも一応の成績をあげていたものだった。そして3年生の頃からサッカーに没頭しはじめた。これは1年生の1年間、鎌倉と学校の往復のほとんどを、岩渕さんと彼の蹴球談議が同行していたことが最大の素因であったと言え、それほど彼のサッカーに対する情熱から出る言葉に説得力が或いは魅力があり、それに惹かれたのが、我々だったと言えよう。
 当時の蹴球部員は優秀な人材が揃ってはいたが、ほとんどが他部とのかけもちで、対外試合でのチームは全校生徒中から選ばれた11人に依って出来上がったと言ってもよいと思う。従って真に蹴球部の代表としての誇りを持つまでにならなかったのではなかろうか。学校に野球部があったらとか、他の競技に身を入れた方がよいのではないかと思ったりした者も中にはあったと思う。しかし、昭和4年大口主将の率いたチームで味わった敗戦が、我々に湘南蹴球魂を生み出させたと思う。当時の4年生選手全員が部に残って(当時は4年終了で進学出来た)何とかして、来年勝とうと約束し合った。その結果、昭和5年の連戦連勝となり、湘南の蹴球、蹴球の湘南、が中央に認められたことは、当時の5年生8名が終生誇りとする所であって、正に、湘南蹴球の幕開きであったと思う。
 此の間、我々の心に、蹴球と愛校心を植え付けたのは、赤木校長、金持部長をはめとする全先生方の熱意と岩渕さんの蹴球そのものであり、加えて諸先輩(特に天野4兄弟、中山、真田氏等)方の色々な形での励ましの上に、後藤基胤(湘南→習院)先生、時田(東京高師)氏、日本サッカーの歴史に残る名手、若林、野沢(東大)両氏等から受けることの出来た技術指導が大きな力となったものと心に銘じている。

自分は昭和6年慶応に進学し、慶応ソッカー部の東京大学リーグ、全日本学生初優勝を経、慶応ソツカー黄金時代の初期の一員となり得たことは、誠に誇らしいこであると共に、湘南の蹴球のお陰と思い感謝に堪えない。が湘南サッカー部に対ては何らのお手伝いもせず申訳なく思っている。
尚、田村、松岡巌、小林忠、(旧姓早川)、福井。諸君が慶応ソッカー部で夫々活躍され、湘南の名に輝きを加えたものとして喜ばしい限りである。
この紙面をかりて、故人となられた、先生方、先輩、同輩のご冥福を祈らせていだきたい。