昭和初期の湘南サッカー

6回生  藤田 得利

1.岩渕さんのこと
 私は大正15年(昭和元年)に旧制湘南中学に入学しました。卒業は昭和6年になります。入学早々の授業の休み時間に5年生の岩渕さんが教室にやって来て、「小学校で足の速かったもの、運動選手だったものは蹴球部にはいれ」と入部の勧誘をしました。この堂々たる体躯の上級生は新入生たちに強い印象を与えた様で、われわれの学年からは比較的大勢のものが入部したのでした。岩渕さんの湘南蹴球部強化5年計画はこの新入生勧誘の時から始まったのです。
 当時、県内では県立横浜2中(翠嵐高校の前身)が名門校として常勝を誇っておりました。大正15年、岩渕(5)CF主将の時、これに勝てません。昭和2年、中村(5)F主将の時も駄目。笠原(2)CF、藤田(2)GK、小さい2年生を使わねばならなかったので勝てません。この頃から打倒2中、県下優勝が湘南サッカーの悲願となりました。昭和3年、高梨(5)CH主将の時も勝てません。この年から東大の若林、野沢の両コーチが来る様になりました。昭和4年、大口(5)RH主将、木村(4)CW、笠原(4)LI、駒崎(4)RW、麻生(4)LH、藤田(4)CH、入澤(4)RH、松岡(4)GKなど大正15年入学組がもう4年生で身体も大きくなってチームも実力的には県下トップクラスにはいりました。2中との決勝戦は11月下句、冷寒暴風雨の日でした。前半不運にも、風下サイド、雨と風とぬかるみの中で相手、風上の優位からドサクサマギレに1点を押し込まれた後、選手の健康を慮って試合は中止、異例にも、日を改めて後半だけ再試合。結局1−0の負けと、涙をのんだのでした。昭和5年、藤田(5)CH主将、木村(5)LH、笠原(5)LI、小熊(3)CF、樋口(3)RI、駒崎(5)RW、麻生(5)LH、入澤(5)RH、山中(4)LF、間島(5)RF、松剛5)GKのメンバーです。気力、技カともに充実しました。先ず、春、県下大会で初優勝、余勢をかって夏、東京高師主催の全国大会で準優勝、秋、横浜高商主催近県大会に優勝、続いて県下リーグ戦に優勝、冬、全国大会関東予選決勝戦に青山師範に2−2引分(抽選負)という成果でした。横浜2中とはこの年、5回対戦、3−1、5−0、3−0、2−1、3−1と何れも完勝、積年の悲願を一挙に達成したのでした。
 岩渕さんが揚言した5ケ年計画通り、丁度5年目に目標を達成したのでした。この事は、その後岩渕さんが、サッカーの鬼と言われる程に湘南サッカーに打ち込む様になったきっかけの一つであったかも知れません。

2.湘南サッカーの初期の興隆に寄与された方たち
赤木校長
 サッカーを校技とすると決断した校長先生です。
後藤先生
 湘南に初めてサッカーを持ち込んだ先生。
金持先生
 初優勝した時の蹴球部長で教頭先生。高等師範時代は箱根駅伝の選手。厳しい教頭先生でしたが、個々の生徒や部員に対しては思情厚く、その包容力で湘南蹴球部を初優勝へ導いた感じです。私に水戸高等学校進学を勧めてくれました。
香川先生
 昭和10年代の蹴球部長。日本や世界中のどんな所でも、そら暗記の地図をその場で、すらすら黒板に書き上げる特技をお持ちでした。熱血漢。熱情をもって部を引張って行かれました。丁度この頃、私はコーチを引受けておりました。甲信静大会優勝の瞬間、熱情家の先生は泣いて喜ばれたことを思い起します。お子さんが皆秀才で、サッカーの名選手が出ました。
若林、野沢両コーチ
 昭和3年、天野先輩が静高から東大に進まれた年。東大名フォワード若林。名ハーフ野沢の両氏をコーチとして連れて来られました。当時、東大は6連覇の黄金時代でしたから、今でいうと、釜本、杉山の二人を連れて来た様なものでしょう。岩渕さんが湘南サッカーの精神的な支柱であったとすれば、二人は技術的支柱であったと言へましょう。2対1のトライアングルパスの基本と練習方法は若林氏の、又3対2の防御連携プレイの理論と実践は野沢氏のコーチされた技術遺産の一部です。個人プレイの集合体でしかなかった湘南サッカーはこの時から組織的なチームプレーのサッカーに脱皮したのでした。
 私は中学卒業後の浪人中の昭和6年と大学在学中の昭和11〜13年の合わせて4年間湘南サッカーのコーチを引受けました。独創は加えながら単なる我流は避けて、極力若林・野沢理論の伝承に努めました。昭和6年、山中RF主将の時、前年選手が8人も卒業で抜けた直後のチームにもかかわらず夏の全国大会には決勝にまで進出志太中学と延長、再試合、再延長と激斗を繰ひろげるところまで行けたのも、又数年後、小熊CH主将時代、甲信静優勝、甲子園に初出場出来たのも、この若林、野沢理論によるチームの組み立てが代々伝わり、それが成果を挙げた一要因となった様に思えます。甲信静大会の静岡中学との決勝戦で、2年生か3年生でまだ幼さの残った少年、安保、大埜の両君がウィングとインナーのコンビで、トライアングルパスを駆使して、大柄な静中選手を次々と抜き去り何回か敵陣内に攻め込んだ光景が今も時々思い出されるのです。