湘南ペガサスシニアチームの渉外担当として

シニアチーム 山 本  修

15周年記念誌と一部重複しますが、シニアチーム発足以降の経過概要を、渉外担当の立場から回想して寄稿とします。

1. 湘南ペガサスシニアチーム発足

湘南ペガサスクラブ設立後10年以上経過すると、発足当時のメンバーの多くが50才以上となり、毎年40才の新人が加入して四十雀リーグ1部の公式戦に出場するのは40才代の若手メンバーが中心となり、50才以上のシニアメンバーは年数回の親善交流試合に参加するだけという状況になってきた。

12年目の平成元年(1989)からは、横浜サッカー協会主催のマスターズOB大会に参加し、年に1回ではあるが、50才以上のメンバーでの試合機会が確保されるようになった。
14年目の平成3年(1991)年度には、クラブ内の世代交代も十分に進んだことから、発足当時の年代層の湘南OBおよびその友人の協力参加も加えて、50才以上メンバーの湘南ペガサスシニアチームが編成され、四十雀リーグ1部所属の湘南ペガサスチームから分離独立して、この年の第8回四十雀リーグの2部に加盟した。この年度に、私は新編成の湘南ペガサスシニアチームの渉外を担当した。

2.四十雀リーグ2部・3部

シニアチームが加入した平成3年度第8回の四十雀リーグは1部・2部各11チームの構成であったが、新規参加チームが年々増えて、平成7年度第12回は1部13チーム・2部14チームの計27チーム、平成8年度(1996)第13回には30チームになって、1部・2部・3部各10チームの3部制に再編成され、それ以来湘南ペガサスシニアは3部に所属している。

参加資格40才以上の四十雀リーグの中では、50才以上の我が湘南ペガサスシニアチームは高年令で、平均年令が10年若いチームを相手に常に苦戦の連続で、2部でも3部になっても、毎年ビリ争いをしている。神奈川四十雀Aチームと初期の川崎四十雀Aチームとは、湘南ペガサスシニアチームと同様に、50才以上で構成されているので、同年配で対戦できる数少ない相手であった。

10年ほど前までは、子供サッカークラブの手伝いをしている父親たちが主体のチームが、四十雀リーグのなかに2〜3チームは所属していた。子供クラブの世話をしながら、我々もやろうといって中年でサッカーを始めたメンバーが多数のこのような父親主体チームに対し、湘南ペガサスシニアチームは、40才代の走力とスピードには負けていても、球扱いの技量と戦術眼の優位性を生かして対抗し、勝負は互角の好敵手であった。

これらの父親主体チームも世代交代が進むと、走力と技術を兼ね備えた強力チームに成長して、以前のような好敵手は少なくなってしまったようである。
50才以上の湘南ペガサスシニアが、同年配の対戦相手が少ない時代に、やむを得ず四十雀リーグ2部・3部に加入したもので、五十雀リーグが本格的に運営されるようになると、四十雀リーグからは撤退することも議論されるようになったが、とりあえず、平成15年度第20回四十雀リーグにはこれまで通り参加することになっている。

3.五十雀リーグ

四十雀リーグ所属のどのチームも、湘南ペガサスクラブと同様に、四十雀リーグ発足当時のメンバーの多くが50才以上となり、試合出場機会が少くなっている状況から、五十雀リーグを目標に、50才以上チームの交流試合を各チームに呼びかけ、平成4年度(1992)には当クラブの井上孝氏が世話役になって、東海大学グランドを借りて5チーム参加のワンデイ五十雀交流試合を開催し、平成5年度、平成6年度は6チーム参加で五十雀プレリーグが実施され、湘南ペガサスシニアチームも参加した。

平成7年度、8年度はこの活動がスローダウンしていたが、ようやく準備が進んで平成8年11月の四十雀リーグ代表者会議において県協会事務局から五十雀リーグの来年度発足がアナウンスされ、湘南ペガサスシニアを含む8チームの参加により、平成9年度(1997)第1回五十雀リーグがスタートした。

その後加入チームが増加して、平成14年度(2002)第6回五十雀リーグには12チーム、今年平成15年度第7回には14チームが参加している。同年配と対戦する五十雀リーグでは、湘南ペガサスシニアは毎年優勝争いに加わっており、平成11年度第3回と14年度第6回の2回の優勝、準優勝1回、3位3回の成績である。

4.湘南ペガサスシニアチームのその他の試合

(1)県議長杯五十雀トーナメント
四十雀リーグと並んで四十雀トーナメントは以前から開催されているが、五十雀リーグの参加チーム増加に対応して、県議長杯五十雀トーナメントが平成13年度第1回、14年度第2回と開催され、湘南ペガサスシニアチームもこれに参加している。

(2)古河市マスターズ大会50才以上エンジョイ部門
古河市マスターズ大会は40才以上を参加資格に平成3年度(1991)から実施されているが、平成7年度の第5回に50才以上エンジョイ部門が新設された機会に、なるべく同年配同士の試合機会を増やしたいと考えて、湘南ペガサスシニアも参加し、以後毎年1泊2日の交流試合を楽しんでいる。

(3)全国シニア大会
平成14年度第1回の全国シニア大会が、日本サッカー協会主催、50才以上が参加資格で、県別予選、地域別予選の後、全国大会という方式で開催された。湘南ペガサスシニアは、神奈川県予選で五十雀リーグ選抜チームに勝って関東大会に出場し、1回戦茨城代表に勝ったが、代表決定戦で千葉代表に敗退し、全国大会には出場できなかった。

5.60才以上の「湘南ペガサス60」チーム

湘南ペガサスクラブ設立後20年以上経過すると、発足当時のメンバーの多くが60才以上となり、ペガサスシニアチームに毎年50才の新人が加入して、五十雀リーグの公式戦に出場するのは50才代の若手が中心となり、60才以上のメンバーは、別途以下のような60才以上の試合に主として参加するようになった。

このような試合行事はクラブ運営とは別扱いとして運営されていたが、ペガサスシニアの60才以上メンバーの増加に対応して、60才以上対象のこれらの試合をクラブの行事として認定することとなり、平成12年度(2000)から60才以上メンバーの湘南ペガサス60チームの活動が開始されることとなった。
これにより、我が湘南ペガサスクラブには、40才以上、50才以上、60才以上の各年代別チームが編成され、それぞれ年代に応じて活動できる体制が整備された。

(1) 刈谷スーパーエイジ大会

参加資格60才以上の刈谷スーパーエイジ大会には、湘南サッカー部超OBと60才以上の湘南ペガサスシニアのメンバーとの混成チームを編成して、湘南OBサッカークラブの名称で、平成6年度(1994)第1回から参加した。

ペガサスシニアのメンバーが、毎年60才となるとこのチームに加入して、年々増加し、平成10年度の第5回から実質的にペガサスシニアの60才以上メンバーで構成されるようになり、平成12年度第7回からは、上記ペガサス60チームの公認に対応して、湘南ペガサスクラブの名称で参加している。

(2) 福島Jビレッジの全国シニア大会

福島Jビレッジを会場に、参加資格60才以上の全国シニア大会が企画され、平成10年度(1998)プレ大会、11年度第1回から公式にサッカー協会主催により開催されるようになった。上記の刈谷と同様に、湘南OBクラブ・湘南ペガサスクラブとして、平成10年度プレ大会から14年度第4回まで毎年参加している。

(3) 菅平ダイヤモンドエイジ大会

菅平高原の旅館組合が、ラグビー用に整備した芝生のグランドを提供して、参加資格60才以上のサッカー交流会を開催している大会で、平成13年度(2001)第1回、14年度第2回と、湘南ペガサス60チームが参加した。

(4) 六十雀リーグ

神奈川県四十雀リーグが間もなく20周年を迎えることから、参加資格60才以上の六十雀リーグの準備が進められ、平成14年度(2002)プレリーグとして、湘南ペガサス60を含む4チーム参加、2回総当たりのリーグ戦が実施された。平成15年度には、5チーム参加の第1回六十雀リーグがスタートの予定である。

(5) 古河マスターズ大会60才以上エンジョイ部門

平成14年度(2002)第12回の古河マスターズ大会に、60才以上エンジョイ部門が新設され、湘南ペガサス60チームが出場し、3チーム参加の第1回大会に2勝して優勝した。

(6) Gリーグ

東京、千葉、茨城、埼玉、栃木、神奈川、などの関東各県と清水市の60才以上チームが集まって、良いグランドが確保できた機会に、お互いに誘い合ってサッカーを楽しむ交流会が、感動と健康のGリーグと称して、02年度から開催されるようになった。

湘南ペガサス60は、昨 平成14年度には、千葉県都賀、習志野、埼玉県深谷、清水へビジターとして参加したほか、昨年7月には、湘南ペガサス60が主催して、ワールドカップの公式練習会場として芝生が整備された保土ヶ谷サッカー場を会場に、東京と清水を招待した。

6.東海大四之宮グランド

神奈川県のシニア年令リーグは、昨 平成14年度第19回四十雀リーグ;1部・2部・3部A・3部Bの編成で計43チーム、第6回五十雀リーグ;12チームが参加する盛況で、更に年々増加している。
この四十雀リーグ・五十雀リーグ実施の最大の問題点は試合会場のグランド確保である。

このためには、参加チームが年に1回グランドを確保することが原則で、このグランドの順次持ち回りにより一日5〜6試合を消化して10〜12チームの総当たりリーグ戦が成立する。年々増加する新規加入チームには、この原則が厳しく適用されて、年1回のグランド確保が新規加入の資格要件とされている。

我が湘南ペガサスは、ジュニアチーム・シニアチームの2チームが参加しながら、ホームグランドとして確保提供できるグランドが無いので、グランド確保は他チームに依存している。四十雀リーグスタート以来の古参メンバーとして大目に見てもらっているが、いつも肩身の狭い思いを続けてきた。

平成4年度(1992)第9回四十雀リーグから、井上孝氏の紹介で、東海大学四之宮グランドが借りられるようになり、平成10年度第15回四十雀リーグまでの7年間は湘南ペガサスの提供グランドとして使わせてもらった。相模川河川敷のこのグランドは、雑草が生えていて、必ずしも良いグランドとは言えないが、この期間は、通常の割り当て以上に多くの回数のグランドを提供して、長年の借りを返すことができた。
残念ながら、平成11年にこのグランドは閉鎖になり、我が湘南ペガサスはグランドを提供できないチームに逆戻りしている。

7.リーグ幹事

平成7年度(1995)には、湘南ペガサスシニアチームの渉外担当を、私が再度引き受けることになった。この年は、第12回四十雀リーグの2部の持ち回り当番の年に当たり、湘南ペガサスシニアチームが主幹事、座間四十雀チームが副幹事として、リーグ運営の大役を受け持つこととなった。年間の仕事量も多いことから、この年は、渉外主担当の私と副担当の井上孝氏との2人でこの仕事を担当した。

この年も新加入2チームが増えて、四十雀リーグ2部は14チームの編成となった。前年の2部12チーム総当たりのリーグ戦でも、1日6試合×11日=計66試合が必要で、グランド確保の困難や、更に雨天順延などが起きて、毎年幹事チームは11月ないし12月までに日程を完了させるのに苦労していた。

14チームの総当たりリーグ戦では91試合の日程消化が必要で、例年通りのやり方では、4月開始、11月完了の目標の達成はまず不可能と予想された。そこで、リーグ戦による順位決定の基本線は維持しながら年間試合数を削減できるように、つぎのような2段階リーグ戦方式を創案した。
 
2段階リーグ戦方式                        計67試合
  第1次リーグ Aブロック Bブロック 各7チーム独立にリーグ戦  42試合
  第2次リーグ 上位リーグ 上位各4チーム計8チームのリーグ戦   16試合
         下位リーグ 下位各3チーム計6チームのリーグ戦    9試合
        (1次リーグで対戦した試合は再戦せず、1次リーグの結果を適用)

これにより、リーグ戦として1位から14位までの順位は決定されながら、総当たりに比べて24試合が削減され、前年の12チーム総当たりの試合数66試合と同程度になる。しかも、上位同士・下位同士の対戦試合は確保され、削減されるのは上位対下位の対戦であり、リーグ戦として望ましい特徴が維持されて、実害は少ないと期待される。

共同幹事の座間四十雀チームとも相談して、リーグ戦開幕準備の四十雀リーグ運営委員会に対し、この2段階リーグ戦方式を提案した。ところが、リーグ運営委員の主要メンバーからは、例年通りの総当たりリーグ戦で実施すべきであると、反対意見が出され、この案はボツになりそうになった。

運営委員の一人から、「まずこの2段階リーグ戦方式でスタートし、第2次リーグが終わった時点で、日程に余裕があれば総当たりの残り試合を実施し、日程に余裕が無ければそこで打ち切りとすれば良い」との助け船が出され、この妥協案が採用された。

実施結果は予想通りの苦しい日程であり、第2次リーグが12月までズレ込んで、第2次リーグ終了をもって打ち切り、結果として2段階リーグ戦方式の実施となった。リーグ運営の幹事チームとして一番の懸念事項は、例年通りグランド確保であったが、上記6項の東海大四之宮グランドを使用させてもらえたことで、大いに助けられた。

8.渉外担当として

湘南ペガサスシニアより5年早く、神奈川四十雀クラブでは50歳以上の神奈川四十雀Aチームを編成して、昭和61年度(1986)第3回四十雀リーグから2部に加入していた。
私の場合、前年昭和60年度第2回四十雀リーグまでは湘南ペガサスのメンバーとして出場したが、翌年の第3回四十雀リーグから選手登録を2部新加入の神奈川四十雀Aチームへ移籍し、平成2年度(1990)第7回四十雀リーグまで5年間、神奈川四十雀Aチームでは監督兼渉外担当兼選手として出場した。

50歳以上メンバーにより湘南ペガサスシニアチームが新編成されて、平成3年度第8回四十雀リーグの2部に加入した機会に、私も選手登録を移して湘南ペガサスシニアに復帰した。神奈川四十雀Aで渉外を担当していた経験が買われて、この平成3年度に、湘南ペガサスシニアの渉外を、私が担当することになった。
次の年も渉外担当を継続のつもりであったが、たまたま家内が脳腫瘍で手術、長期入院ということになり、平成4年度の渉外担当を井上孝氏に引き継いでもらった。

家内の脳腫瘍手術後の経過不良、1年10ヶ月の長期入院の後亡くなるまで病院通いに忙しく、足掛け3年間はクラブの役職を免除させてもらったが、平成7年度(1995)には、湘南ペガサスシニアチームの渉外担当を、私が再度引き受けることになった。この年度は、前記7項のように、第12回四十雀リーグ2部14チームのリーグ幹事の大役のほか、古河マスターズ50才以上の部に初参加した年であった。

湘南ペガサスシニアの渉外担当に加えて、リーグ運営委員にもアサインされ、四十雀リーグ全体の企画運営の審議に参画した。翌年平成8年度は第13回四十雀リーグの3部制への再編成の年、次の9年度は第14回四十雀リーグ3部と並行して第1回五十雀リーグ開始の年で、平成7年度〜9年度の多事多難の3年間、クラブの渉外担当とリーグ運営委員を続けた。平成8年度(1996)には湘南ペガサスシニアチームの監督も兼任した。

平成10年度は、痴呆症の老母の介護のため1年10ヶ月の予定で母の住居の世田谷区へ転居し、夜間・休日の外出の自由度が制約される事態となり、やむを得ず渉外担当を辞退して、渉外担当とリーグ運営委員を渡嶋九州夫氏に引き継いでもらった。

9.おわりに

今回の25周年記念誌は、前回の15周年記念誌から後の10年間が対象であるが、シニアチーム発足以降の12年間の経過概要を回想して、寄稿としました。
この時期は、私にとっては、家内の入院手術以来の約11年間一人暮らしを続けた時期と重なります。
一人暮らしによるストレスに加えて、家内の看病から死亡の後処理、ボケの老母の介護分担が重なって、ストレスの多い11年でした。これまで何とか健康で過ごすことが出来たのは、皆さんと一緒にサッカーをやることができ、皆さんから励ましていただいたお蔭と感謝しています。

シニア年令のサッカーが益々盛んになって、県内では四十雀リーグ・五十雀リーグ・六十雀リーグと年代別の試合機会も増え、我が湘南ペガサスクラブも40才以上、50才以上、60才以上の年代別チーム編成が整備されていますが、私の場合、
   四十雀リーグ発足第1回の 昭和59年(1984)、 私は51才、
   五十雀リーグ発足第1回の 平成9年(1997)、  私は64才、
   六十雀リーグ発足第1回今年平成15年(2003)、 私は70才   という経過で、
どの時代も少し早く年を取りすぎて、20年間若い選手相手に苦戦を続けてきました。
10年後には、七十雀リーグ発足を80才で迎えることを目標に、これからも励みたいと願っています。

                           (昭和27年 湘南高卒業)