ペガサス入会から10年を振り返る
〜6年振りの3位入賞から1部転落まで〜

                          平成8年〜10年
                       ジュニアチーム監督  浅 倉  泰

 私がペガサスに入会したのは、40才を迎えた翌年平成4年(1992)の春です。同期の山口晴夫がOB会の世話役をやっていた関係で、ペガサスのメンバーとも面識があり、一緒に入会しようとの誘いがありました。腕試しならぬ足試しに呼ばれたのは、確か4月頃の鎌倉四十雀との練習試合だったと思います。それまで、サッカーの方は会社(東急不動産)のチームに所属し、年に2回、東急グループの大会と不動産の同業者のリーグに参加する程度で、思い出したように試合をしていた状況でした。

但し、40才の記念にホノルルマラソンに挑戦しようと39才の夏から走り込みを行い、結果的には直前に膝を痛めて参加を断念しましたが、サッカーを始めるだけの基礎体力はついていました。その下地があったからこそ、ペガサスに飛び込んでいけたのかも知れません。しかし、その年の古河マスターズにいきなり参加し、1日2試合の洗礼をうけて、サッカーはただ走るのとは大違いと言うことを身にしみて感じました。二日目は歩いて試合会場に行くのがやっとという有様でした。

そんな形でスタートしたペガサスでのサッカー遍歴ですが、2度ほど怪我でもう続けられないのではないかと思ったことがあります。最初は始めて2、3年目だと思いますが膝が痛くなって、なかなか直らずに鍼灸なども試みましたが、芳しくなく、これはサッカーを止めろということかな、などと落ち込んでいました。いろいろ調べてみると、膝の痛みを解決するには膝の周りの筋肉をつけるのが一番いいという事がわかり、スポーツクラブに通って、スクワッド等の筋力トレーニングに励みました。その甲斐あって、膝の痛みは解消していきました。

次は肉離れです。試合中に相手ボールをインターセプトしに前に出たとたんに、脹ら脛をバシッと後ろから蹴られたような感じがして、激痛が走りその場にうずくまりました。サッカー人生初めての肉離れです。肉離れは安静にして、完全に直るまで、無理をしないというのが唯一の治療法なのですが、ついつい中途半端な状態で運動を再開して、また同じところを傷めるということを何度か繰り返してしまいました。

この時はテーピングに救われました。キネシオテープと普通のテープを組み合わせて、少々大げさにみえるかもしれませんが、試合前に必ず丁寧にテーピングをします。これによって、筋肉の無理な動きを押さえて、筋が切れるのを防いでくれるわけです。これを始めてから、一度も肉離れをやっていませんから、効果は絶大だと思います。肉離れをしやすい人にはお薦めします。

 さて、怪我の話ばかり書いてきましたが、そろそろ本題に入りたいと思います。
私が田部井さんから監督を引き継いだのは、平成8年(1996)の第13回四十雀リーグからです。その前は7位、6位、6位と一部の中位に位置していました。横浜、神奈川、茅ヶ崎にはどうしても勝てず、その他取りこぼしで1、2敗するというパターンで戦績は安定していました。

第13回リーグも同じような展開でしたが、このシーズンから加わった、アンテロープス出身の二見氏、藤田さんの紹介で加わった白井氏(1シーズンのみ)、及び前年から参加した関、福永両氏の4人の戦力が非常に大きな力を発揮し、横浜、神奈川、茅ヶ崎以外は取りこぼしをせずに5勝3敗1分けで第3位に入賞しました。勝った試合5試合の内4試合が1−0の試合とギリギリの所で勝ちを拾っての3位でした。

4位の横須賀とは勝点は同点で、得失点差が湘南+1点で、横須賀±0点での本当に僅差の3位でした。この3位入賞は第7回大会以来6年振りの快挙となりましたが、メンバーの実感としては、知らないうちに3位になっていたという感じだったのではないでしょうか。

平成9年(1997)は福井(民)、伊通、相羽氏がシニアに移り、新メンバーが10名入ってきましたが、旧メンバーとのコンビネーションがうまく噛み合わず、2勝5敗2分けの8位で危うく2部へ転落するところでした。
平成10年(1998)は更に藤田、阿部、田部井、坪井氏などがシニアに移り、新旧交代のシーズンになりましたが、残念ながら新チームが旨く機能せず、1勝9敗、その1勝も不戦勝と実質的には全敗で終わり、2部への転落が決まってしまいました。

新メンバーへペガサスの戦い方を打ち出せなかった監督である私の責任が大きかったと思います。OB以外の会員が多くなり、現役時代の湘南高校でのサッカーが暗黙の了解事項となっていた時代から、チームとしての戦い方を明示して試合に臨まなければ勝てない状況に変化していました。その点、私がバトンタッチした関氏はこの点を意識して取り組んでいただき、2年後の1部復帰を達成してくれました。

このシーズンから、新メンバーが早くチームへ溶け込んでもらえるよう、出来るだけプレー時間を確保したいと思い、私の方からお願いして、50才になる方はシニアの方へ上がって頂くことにしました。その際、きちんとした送別会も開催せずに、電話連絡だけで終わらせてしまったことは、今も心残りです。この場を借りて、諸先輩にお詫びしたいと思います。       
 
私が監督をしていた間に印象に残ったイベントが二つあります。
一つはJビレッジへの遠征です。メンバーの河西氏の紹介で地元福島の双葉四十雀ともう2チームが参加し、4チームで親善試合をやることになりました。平成9年(1997)年の7月にオープンしたJビレッジの素晴らしい芝を一度踏みしめてみたいと、我々はバスを仕立てて朝7時に藤沢から出発しましたが、遠いこと、遠いこと。今は高速がもう少し伸びているかもしれませんが、高速を降りて行けども、行けども到着しません。ようやく着いたのが午後1時半ですがそのころには、くたびれ果てていました。2度と車では行くまいと思いました。

しかし、施設に入ると見渡す限りの芝のグラウンドで、ようやく日本にもこの様な施設が出来たかと、感慨ひとしおでした。その後行く機会は有りませんが、あと10年サッカーを続けていればペガサス60の大会が有ると聞いておりますので、その時を楽しみにしております。

 もう一つは御殿場、時の栖での合宿です。たしか当時シニアの方から「芝の素晴らしいグラウンドが有るから、一緒に行かないか」とお誘いを頂き、御一緒させていただきました。この時はグラウンドも素晴らしかったのですが、それ以上に地ビールとソーセージの味に皆感激しました。その時の印象が強かった為、シニアのサッカー大会の企画会社から、この施設を使った企画を提案されたときには、直ぐに申し込みをしました。それ以来ジュニアの秋の恒例行事となり、サッカー、温泉、地ビール、ソーセージを楽しみにして毎年参加しています。

 メンバーとして、監督としてこの10年ペガサスに参加して来ましたが、何故これほど入れ込んでいるのかと自問することがあります。まあ、他にやることがない、仕事がさほど忙しくない、など消極的な要因がもちろんありますが、根本的には闘争心の発露にあると思っています。日常の社会生活の中ではなかなか正面切って勝負することは出来ませんが、ゲームの中では熱くなってファイトすることができます。この熱くなれる時間が私にとって、とても貴重な時間なのだろうと思います。

 先日、昨年から加入した私の同期が、酒井大先輩の軽快なプレーを目の当たりにして、何だあの爺さんはと私に聞いてきました。ペガサスの現役最長老だと知って二度びっくり。これから先、相当長い道のりになりますが、私も酒井大先輩を目指してサッカーを続けていきたいと思います。

   (昭和45年 湘南高卒業)