追  悼

大内健嗣さんを偲んで

シニアチーム  松 本  好 且

 大内健嗣君が逝ってしまってから早いもので2年が過ぎてしまいました。“湘南ペガサスサッカ−クラブ”が25周年の節目を迎えたこのお祝いのときに、彼と一緒に喝采を叫び、祝杯をあげることが出来ないのが残念でなりません。
25年前、柳川先輩の東京栄転を祝う酒席で集まった、大内君、牧村君、岡田君、達と「40才代でチームを作ってまたサッカーをしよう。」の話が決まった時のこと。報告と許可をいただく為に二人で岩淵先生のところへ行き、そこでお茶の用意までして待っていてくださった先生から「是非やってくれ」とユニフォームもいただき、鈴木先生に電話をされ初試合の相手、グランド、日時まで決めていただいた時のこと。初戦に勝って発会式を「洗心亭」で行い、“湘南ペガサス”の命名を受けた時のこと。また二人は小学校で子供達のサッカーをみていたこともあり。(この時ペガサス第4代目の監督をした宮杉君とも知り合いました。)
 彼大内君と私のサッカーを通じての思い出を書き出すときりがありません。

 我々の現役時代は旧制中学最後の入学生、柳川さん、栗原さん、山本さん、達が卒業された後で、コーチとして柳川先輩が毎日来て下さっていました。(本当に毎日でした。雨の降っている日もでした。)
 最初は大内君は6番(左ハーフバック)をつけていたので、柳川さんからは「大内、右足でボールを蹴る事は禁止!」と云われていました。結果、彼は右利きの左足使いになったのです。後日、その効果は充分あったと思い出します。

 当時のフォーメーションはフォワード5人、ハーフバック3人、フルバック2人の今流に書くと“2−3−5”のシステムでのチームがほとんどでしたが、湘南はフォワードを4人にしてスイーパーを置く“1−3−2−4”と云うフォーメーションを岩淵先生が考案され、ボルトシステムと呼んでいました。(これは昭和31年から35年まで当時の若手OBチーム:フェニックスでも使っていました。)

 この時大内君はフォワードになり、前4人の11番が大内君で9番が中原君です。これで対戦相手が4人のフォワードに戸惑っていたためもあり それなりの戦績をあげ、当時県内では小田原高校と常に優勝を争っていたのですが、昭和29年7月の神宮競技場(現国立)での東日本大会に出場し、 1回戦で本荘高校、2回戦で館林高校に快勝、そして準々決勝は教育大付属高校との試合になり、雨の絵画館前の田圃のようなグランドで“0−4”の惜敗(?)でした。これが当時の実力でした。

 この大会では大内君は2得点あげていますが、2本とも強烈なミドルシュートで後ろにいる我々には彼が蹴る前に 「やった!入った。」と確信させるクリーンシュートでした。今でもあの時の彼の少し照れた様な笑顔が思い出されます。

そして“湘南ペガサス”結成後の叢生期に大内君が居なかったら今のペガサスはなかったと云えるでしょう。
昭和53年の呼びかけに応じて集まったのはサッカー大好き男たちでしたが、サッカーはしたいがその為の雑務は無理と云う働き盛りの“40代”ばかりでしたから。彼がしていた仕事量は大変なもので、名簿の整理、試合の通知、相手チームとの連絡、グランドの手配、試合会場でのポジションの割振り、クレームの処理等々、クラブ運営のほとんど総てを一人でしていたと云っても過言ではないと思います。

彼は非常に几帳面な男ではありましたが、これだけのことをするには淳子夫人の多大な協力があったのだと考えます。また、年に何回か会員相互の親睦と交流の場として彼は自宅を開放“意見交換の宴”も行っていましたから夫人のご苦労は大変だっただろうと、感謝あるのみです。

大内君、君は“湘南ペガサスサッカークラブ”の代表としてよくチームをまとめてくれていましたね。君の長年にわたる尽力の甲斐あって、今ペガサスは幹事の分業制を確立した組織を持つクラブチームとして湘南サッカーOB会の中核としても機能しています。安心して下さい。これで故岩淵先生のご希望にもそえたわけですから。OB会の会長も故天野さん、故安保さんから、桑田さん、柳川さんとなり、これからも次々に続いていくと思います。

 高い天国からで結構です、末永く見守っていて下さい。そして時々は私と祝杯をあげましょう。乾杯!

 (昭和30年 湘南高卒)